L'Eau froide

nanayoshi's 100 things I love.

nana yoshida

director / editer / writer

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22.05.23

#064

Book

テスカトリポカ

あとどれくらいで着くのか、ペダルを漕ぎながらコシモは考えた。パブロにもらった腕時計を手首に巻いていたが、一度も針を見ようとはしなかった。やがて彼は時間のことを考えはじめた。
コシモは時間についての奇妙な哲学を持っていた。むろん本人はそれを哲学とは思わず、口下手なので他人にうまく説明することも不可能だった。
じかんがふろにはいっている、そんな言葉を口にしたとき、少年院の法務教官はコシモを呼び止めて注意した。「まちがってるぞ」と言った。「正しくは『風呂に入っている時間』だ」
同じようなことはパブロとの会話でも起こっていた。じかんがゆうひにしずんでいる、と言ったコシモの文法を、パブロはゆっくりと訂正した。「夕日が沈んでいる時間ーだろ?」
法務教官に注意されたときも、パブロに言い直されたときも、コシモは間違えたつもりはなかった。自分の感じている時間のことをごく自然に、正しく言ったつもりだった。
コシモにとって時間は、主体や事物の容れ物ではなく、生命そのものだった。時間こそが主語だった。時間のほうがこの世界を経験しているという考え方は、一般常識から見ればまるであべこべで、フィルムのポジとネガを反転させたような世界観だといえた。
こういう考えかたをするのは、どうやら自分だけのようだと気づいたコシモは、誰かと時間の話をするのを控えるようになった。

『テスカトリポカ』佐藤 究著