L'Eau froide

nanayoshi's 100 things I love.

nana yoshida

director / editer / writer

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21.10.3

#063

Book

クマツヅラの匂い

「私がよく知っていた父の顔を見おろしたときの、無限の悲嘆と哀惜ーあの鼻、あの髪、偏狭だったあの眼の上にも、いまは瞼が閉じられているー生れてはじめて、その平安な姿が見られると実感されるあの顔。かつての(たしかに、昔の)いわれのない人の血のよごれで、いまなお、眼にこそ見えないが、よごれている空の手、だらりとして不細工な手。いまはあまりにもそれが不細工に見え、人を殺すような大それた行為を、いままでいくたびとなく重ねてきたとはとうてい思われないほどだった。だが、そのような行為をしたあとでも、父は寝てもさめても、その手を自分のからだから切りはなすことができなかったのだから、いまついにそれを安らかに横たえるときがきて、おそらくよろこんでいることだろうーはじめは不細工なものとしてつくりだされた、奇妙な付加物である手も、人間がそれに多くのことをするように教えたのだ。手の当然の役目以上に、とうてい許すことのできないような罪ぶかいことまでも、するように教えたのだった。それがいまは、生命を、父の偏狭な心がはげしくしがみついていたあの生命を、放棄してしまったのだー」

『フォークナー短編集』より『クマツヅラの匂い』ウィリアム・フォークナー著 / 龍口 直太朗訳