L'Eau froide

nanayoshi's 100 things I love.

nana yoshida

director / editer / writer

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20.10.8

#056

Book

金閣寺

・・・私はといえば、目ばたきもせずに、有為子の顔ばかりを見つめていた。彼女は捕われの狂女のように見えた。月の下に、その顔は動かなかった。
私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から拒まれた顔だと思っている。しかるに有為子の顔は世界を拒んでいた。月の光はその額や目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れていたが、不動の顔はただその光りに洗われていた。一寸(ちょっと)目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒もうとしている世界は、それを合図に、そこから雪崩れ込んで来るだろう。
私は息を詰めてそれに見入った。歴史はそこで中断され、未来へ向っても過去へ向っても、何一つ語りかけない顔。そういうふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかりの切株の上に見ることがある。新鮮で、みずみずしい色を帯びていても、成長はそこで途絶え、浴びるべき筈のなかった風と日光を浴び、本来自分のものではに世界に突如として晒されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へさし出されている顔。・・・・・・
私は有為子の顔がこんな美しかった瞬間は、彼女の生涯にも、それを見ている私の生涯にも、二度とあるまいと思わずにいられなかった。しかしそれが続いたのは、思ったほど永い時間ではなかった。この美しい顔に、突然、変容が現れたのである。
有為子は立上がった。そのとき彼女が笑ったのを見たように思う。月あかりに白い前歯のきらめいたのを見たように思う。私はそれ以上、この変容について記すことができない。立上った有為子の顔は、月のあからさまな光りをのがれて、木立の影に紛れたからである。

『金閣寺』三島由紀夫