L'Eau froide

nanayoshi's 100 things I love.

nana yoshida

director / editer / writer

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19.06.9

#050

Book

El libro de arena

「・・・二人の男がわたしを探しにきた。わたしの剣をむざむざ彼らに渡したくはなかったけれども、仕方なく引ったてられて行った。
曙光のなかに、まだ星がまたたいていた。四方に掘っ建て小屋のたっている空き地を横切った。以前ピラミッドの話は聞いていた。しかし、最初の広場で見たものは、黄色の木の柱だった。その先に、黒い魚の形が認められた。わたしについてきたオルムが、あの魚が御言葉だと言った。次の広場では、円盤のついた赤い柱を見た。オルムは、あれが御言葉なのだと、また言う。わたしはその意味を教えてくれと頼んだが、自分は単純な職人なので、わからない、ということだった。

・・・なかには、武装した男たちがいて、みな立っていた。王グンロイグは病気で、壇のようなものに駱駝の皮を敷き、半ば目を閉じて横たわっていた。彼はやつれて黄ばんだ男で、神聖な、しかし忘れられかけた者だった。長い古傷が、胸を横切っていた。兵士のひとりが、わたしのために道をあけた。だれかが竪琴を持ち込んでいた。ひざまづいて、わたしは低い声で頌歌をうたいだした。言葉のあや、畳韻、抑揚、おおよその形式が必要とするものは、なにひとつ欠かさなかった。王がそれを理解したかはわからないが、彼はわたしに銀の指輪をくれ、それは今もわたしの手のもとにある。

・・・『王の指輪はそなたの護符だった。だが、御言葉を聞いてしまったからには、そなたの命は長くはない。このわし、ビヤルニ・ソルケルスソンが助けて進ぜよう。・・・今日では、わしらは唱を刺戟する物事をひとつひとつ描くことはしない。御言葉というただひとつの言葉に要約するのだ』
わたしは答えた。
『実は聞き洩らしてしまいました。それはなにか、どうぞ教えて下さい』
彼はしばらくためらってから答えた。
『わしは、それを明かさぬことを誓ったのだ。そのうえ、だれひとり、なにひとつ教えることはできぬ。みずから発見せねばならぬ。急ごう。そなたの命が危ない。・・・』

・・・時の流れのまにまに、わたしは多くの者になった。だが、こういったつむじ風も、ひとつの長い夢に過ぎぬ。そして、つねに変わらぬ本質は御言葉なのだ。あるときは、わたしはそれを疑った。美しい言葉を組み合わせるという美しい戯れを放棄するのはばかばかしいことだ、唯一の言葉、おそらくは幻の言葉でしかないものを探すいわれなどありはしないと、わたしは、くりかえし自分に言いきかせたものだった。だが、こうした理屈も空しかった。ある伝道師が、「神」という言葉を示してくれたが、わたしは退けた。ある暁方、海に注ぐ、ひろやかな河の岸辺で、わたしは啓示を受けたと信じた。
ウルン人の土地に戻ると、わたしは苦労してあの唱い手の家を見つけた。なかにはいって名を告げた。すでに夜になっていた。床から、ソルスケンソンは、青銅の燭台をともしてくれと言った。彼の顔はあまりに老けこんでいたので、わたし自身も、いまや、もう年をとったのだと思わずにいられなかった。

・・・『そういう土地で、何度も唱ったのか?』
その質問に、わたしは不意をつかれた。
『はじめは、日々の糧を得るために唱いました』とわたしは言った。『その後、なにかわけのわからない恐れに駆られて、唱からも、竪琴からもはなれました』
『よろしい』と彼はうなづいた。『話をつづけたまえ』
わたしは命令に従った。そのあとで、不意に長い沈黙がやってきた。
『お前の最初の女は、なにをくれた?』と彼はきいた。
『なにもかも』と答える。
『わしにも、人生はすべてをくれた。生はすべての者にすべてを与える。だが、多くの者がそれに気づかぬ。わしの声は疲れ、わしの指はもはや力をもたぬ。まあ、よくきけ』
彼は『ウンドル』という言葉を発した。それは、『驚異(ワンダー)』の意である。
わたしは、まさに死に瀕している男の唱に魂を奪われるように感じたが、彼の唱、彼の和音のなかに、わたし自身の詩、最初の愛をわたしに与えてくれた奴隷の女、殺した男たち、夜明けの冷気、水の上の曙、櫂を認めた。わたしは竪琴を取り上げると、別の言葉で唱った。
『よろしい』と相手は言い、わたしは彼の言葉をきくために、にじり寄らねばならなかった。《わかったんだな》」

『砂の本』より『ウンドル』ホルヘ・ルイス・ボルヘス / Jorge Luis Borges
篠田一士訳