L'Eau froide

nanayoshi's 100 things I love.

nana yoshida

director / editer / writer

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16.09.14

#035

Book

EXLIBRIS

ある朝、ソタノ書店で本を探していると、アラメダ公園の中で映画のロケが行われていたので、見物に行った。すぐにジャクリーヌ・アンデーレがいるのが分かった。彼女は一人で、ほとんど身じろぎもせず、
何かの合図を待つようにして左手に並ぶ木立を見つめていた。彼女の周りにはいくつもの照明機材が立ち並んでいた。なぜ彼女のサインがほしくなってしまったのかは分からない。サインなどに興味をもったことはなかったのだ。僕は撮影が終わるのを待った。

そのあとジャクリーヌは辺りを気にせず、また国立芸術院のほうへ歩き続けたので、僕は立ち止まって、彼女に声をかけ、サインをねだりさえすればよかったのだが、彼女はハイヒールを履いてもごまかしきれないほど背が低かったので、僕は驚きを隠さねばならなかった。
…ジャクリーヌは僕を、頭のてっぺんからつま先までじろりと見た。彼女の金髪は見たこともないほど灰色っぽい色で(染めていたのかもしれない)、茶色いアーモンド形の目はすごく大きくて優しくて、いや、優しいというよりは穏やかで、驚くほどの穏やかさで、まるで麻薬中毒患者のような、脳波が動いていないような、宇宙人みたいな穏やかさで、それから僕に向かって何か言ったのだが、聞き取れなかった。

ペンよ、サインするからペン出して、と彼女は言っていた。僕は上着のポケットからボールペンを出してカミュの『転落』を差し出し、扉ページにサインしてほしいのですが、と言った。
…彼女の手は小さくて、指がとても細かった。どんなふうにサインしてほしいのかしら、アルベール・カミュ、それともジャクリーヌ・アンデーレ?おまかせします、と僕は言った。

『転落』のページには、ジャクリーヌのサインが残されていた。
<アルトューロ・ベラーノ君、自由気ままな学生さんへ ジャクリーヌ・アンデーレより愛をこめて>

『通話』
ロベルト・ボラーニョ/松本健二訳